Lost Utopia 02

目の前にがいる。彼女の表情は真顔で、笑っているわけでも怒っているわけでもない。識別年齢からしても幼い印象のあるのその様子から恐怖を感じさせるものが無い。そんな彼女の足下に沙明は情けなくも座り込んで見上げている状態にいた。は何も言わない。ただただ凪いだ海のように静かに立ち尽くし、沙明を見下ろしている。
喉が乾き、掌は汗ばんでいる。彼女の目を見ていると、恐怖や絶望に脳を蝕まれてどう言葉を切り出すか思考を巡らせる。の目は鮮やかな赤色をしている。彼女の瞳はこんなに悍ましい色だったろうか。

「……まさか、お前がグノーシアだったなんてな」
「うん、びっくりしたかな」

びっくりも何もない。沙明自身、少しも疑うこともなかった。空間転移前の自由時間を共に過ごす時だってあった。

「……ハハ、すげーな。自分は無害ですって顔して、ずっと俺たちを騙してたのかよ。お前、嘘上手いんだな」
「ううん、上手くなったんだよ」

ひたり、とが自分の頰に触れる。ぞわりと身体のあらゆるところが震え上がる。

「ごめんね、沙明」

彼女は少しだけ笑った。眉を下げ、申し訳なさそうに、まるで自分を哀れむように言う。その複雑な彼女の表情に、何も言えず、閉口する。
どうして、そんな顔をするんだ。まるで自分だけが辛いみたいじゃないか。
そこで沙明の意識は途絶えた。

***

「沙明」

こんこんとノックの音と共に優しく穏やかな声で自分の名前を呼ばれた。はっとして目を開け、見上げると自分の顔を覗き込む四つの目。目は四つだが、人数はまだ一人と数えるべきか。
シピと彼の首に固定された黒猫がこちらを覗き込んでいた。表情は穏やかだが、様子を伺うようにこちらを見下ろしている。

「……何?」

呂律の回らない舌で声にすると、喉が張り付いているように発声しづらく、耳鳴りがツンと頭の中を駆け巡る。空間転移は完了しているらしいが、深夜にあたる時間帯らしい。男子共同部屋を使用しているしげみちは眠っているらしく、暗闇の向こうからいびきが聞こえる。

「うなされてたみてーだけど、平気か?」
「……ああ」

平気、ではない。気味の悪い夢を見た。同じ船内なのに、違う場所。違う人間のようで同じ顔を持つ人物に消されそうになったのだ。
まだ夢から覚めたばかりだからだろうか、あの夢がどこか現実味があって不気味だった。
これ以上、迷惑はかけられない。そう思って平静を装うように口を開く。

「起こして悪かったよ、もう寝てくれ」
「……なぁ、ちょっと付き合わないか?」

シピに言われるがまま、ベッドを出てついていくと、食堂まで連れてこられた。普段は賑やかな食堂だが、人影がないためかシンとしていて肌寒く感じる。寝巻きのポケットに手を入れて寒さをごまかし、シピが何かキッチンで漁っているのをぼんやりと見ていた。どうやら何か作っているらしく、椅子に腰掛けて待つことにした。

──グノーシア。

自分の唇は確かにそう発言した。あの夢の中で。が、グノーシアだった夢。ルゥアンでの騒ぎもグノーシアが原因だった。現実のがグノーシアではないことは分かっている。もし本当にグノーシアなら、この船の擬知体LeViが黙っていないだろう。なら、どうしてあんな夢を見たのだろう。ルゥアンでの出来事と何か関係があるのだろうか。
昨晩見た夢があまりにも印象的すぎて似たような夢を見たのかもしれない。それにしても、どちらもリアルな気がした。なぜ、自分はの夢を見たのだろう。この船に乗ってからそれほど彼女と言葉を交わしたわけでもないのに。

「ほい、おまたせ」

シピが自分の前にカップを置いた。湯気と共にあまり嗅ぎ慣れない匂いがした。どうやらお茶を入れてくれたようだ。一口飲むと、香草のような味がする。正直なところ、口に合うわけではない。じんわりと指を温めてくれ、さっきまでしていた耳鳴りが少しだけ治った。

「ステラが前に眠れない時はこのお茶を飲むといいって薦めてくれたんだ」
「へぇ、あんたもこういうの飲むわけ?」
「いんや? 前にレムナンにそう話してたのを聞いてただけだ」

まぁ、あんたはこういうの飲まなくても快眠してそうだしな。頭ではそう思ったが言葉にせず、お茶と一緒に飲み込んだ。

「眠れそうか?」
「どうかねェ……まぁ眠たけりゃその時に寝るし」

実際、この船の中は比較的自由に過ごせる。船長のコレクションのゲームやスポーツジムだってあるし、いくらでも話し相手がいる。外に出ることはできないが、それもこの船を降りるまでの話だ。

「まぁどうしてもっつー時はステラに相談したらどうだ? この船のことだし、常備薬もあるだろうし」

宇宙船にならそういった睡眠薬などもあるかもしれない。沙明は眠れないというわけではなく、変な夢を見るために寝不足なのであって薬が効果があるのかは分からない。 それでも、明日にまたステラのところに尋ねようと思ったのは、この重たい頭をどうにかしたかったからかもしれない。

***

「あまり、強い薬を常備しているわけではないのですが……」

ステラはそう前置きをしながら白いカプセルの錠剤を数回分沙明にくれた。

「他に何か不安なことや、この船のことで気になることはございますか?」
「別に? ただちょっと寝つきが悪いだけよ? 俺はいたってケンコー」
「そうですか。 船内の環境改善も私の仕事ですので、限られた環境ではありますが、なんなりとお申し付けくださいね」

ステラはそれ以上沙明に詮索するつもりはないらしく、薬のケースを片付け始めた。手渡された錠剤をポケットにつっこみ、医務室を去ろうとすると、ステラは思い出したように「そういえば」と振り返った。

様が沙明様の体調が優れないようだと、ご心配されていましたよ。またお声をかけてあげてくださいね」

について知っているのは三つだけ。女で、地球出身で、ルゥアン星の騒動にごたごたに巻き込まれて、この船に逃げ込んだ避難民である。そのくらいだった。
彼女自身、ほとんどの記憶を失っているらしい。ルゥアンの出来事を全く覚えてないのだという。あの大混乱であればところどころ記憶が無くなるのも無理もない。しかし、彼女の場合本当に何一つ覚えていないのだという。
普通なら、混乱する状況なのに本人はそれを受け入れて、妙に落ち着いていた。

は、夕里子の次くらいに掴みどころがなかった。どこか、心ここにあらずという風に何が面白いのか、暗い宇宙の果てを窓からぼんやり眺めている姿を見たことがある。何かを思い悩むように憂いたその横顔を今になって思い出した。

その横顔を見たのはいつだっただろう。──そう、確かルゥアンを脱出を記念したパーティーの時だ。

2025.04.12