露顕の女神 後
彼女はきっと分かっているのだろう。
どのような動作が、ポーズが、指先一本の伸ばし方が美しく見えるのか、生まれながらに分かっているのだ。目が合うことはない。さりげなく、彼女の顔を見ないよう目線を逸らしながらその手を観察する。
吉良吉影が通勤で利用するバスに時々乗り合わせる女子高生の手に気づいたとき、雷に打たれたような衝撃を感じた。
通学鞄を持ち直す、手摺につかまる、バスの運転手に定期を見せる──。
その一つ一つの手の形が彫刻のように美しく、目を離すことができない。
惜しむらくはその美しい手の素肌は決して見ることができないことだ。
人間が衣服を身につけるのと同じように、その手は白い薄布の手袋で覆われ、肌や爪を見ることができない。
彼の恋人候補の条件として、肌の状態や爪の形は重要である。品定めをできないことが非常にもどかしいが、白いヴェールに覆われた手が目も当てられないほど荒れていたりささくれだらけで幻滅するよりも、理想の手を妄想している方が幸せかもしれないと、思い直した。
その日、名前も知らない彼女に出会ったのは偶然だった。
いつもなら会社にいる時間帯。仕事の都合でバスに乗るため、バス停へ向えばベンチに例の女子高生が座っていた。顔を俯かせているが、吉影が目を向けるのは彼女の顔ではなく手の方だ。
心臓を直接撃たれたような気がした。鞄で隠れているが、今彼女はいつもの手袋をしていない素手だった。わずかに手首が見えている。鼓動は早く打ち続け、無意識に彼女の腕を引いていつものようにしてしまいそうになる。
しかし、ほんのわずかの理性が吉影を引き留めた。手のひらに自分の爪が食い込み、皮がめくれた。まだ、肝心の手を見ていない。実行に移すのはまだ見ぬ手が恋人に相応しいかどうか確かめてからだ。
「どうかしたかい?」
吉影はごく自然に声をかけた。
不自然に手を鞄で隠し、落ち着きなくあたりを見渡していた女子高生はぱっと顔を上げた。その表情は不安に満ちていたが、吉影にとって彼女の表情はどうでもいいものだ。
「え、ええと……」
女の声は実に幼く野暮ったく聞こえた。
吉影にとって大した問題ではない。手が話すことはないのだから。女の手が鞄の下で動いたのが見えた。そのわずかな挙動で吉影は彼女が何を思ったのか理解した。
彼女は肌身離さず手袋を身につけていた。ひどい土砂降りの日でも夏の暑い日でも、手袋をはめてバスに乗ってきた。きっとそれには彼女の矜持があるのだろうと悟った。
例えば、他人に手を見られたくない……とか。そのおかげで吉影はおそらく美しいであろう手を拝むことができなかったのだが、もしかしたら念願が叶うかもしれない。
──恩を売っておくに越したことはないだろう。
吉影は自分のポケットからハンカチを取り出して広げ、彼女の鞄のうえに広げた。
「少し待っていてくれないか」
彼女の返答を待たず、吉影はその場を去った。近くのホームセンターに立ち寄り、農作業に使うような軍手を購入した。
彼女がいつも身につけているようなシルクなどといった手袋はこの辺りに売っているわけがない。美しい形の手にこんなものを贈るのはいささか忍びないが、今は急ぐことにした。
吉影は再びバス停に戻り、彼女に購入した軍手を差し出した。
「申し訳ない、こんなものしかなくて」
「あ、ありがとうございます……」
女の鞄の上に軍手を乗せてやる。吉影はぐっとその手をこの目で見たいという願望を殺し、背を向けた。
背中の向こうから僅かに布が擦れる音がした。その音を聞いて、吉影は耐えきれず、僅かに目を後ろにやった。
ああ、と声が漏れそうになる。やはり、この目に狂いはなかった。
過去、モナリザの肖像を見た時以来の強い衝撃。美しい形の手はその肌も色も爪も全てが理想通りだった。まさに理想の恋人という言葉に相応しいものがそこにあった。
興奮に思わず息が荒くなる。今は耐えなければならない。
今、ここで彼女を殺すのは簡単だ。しかし、これからこんなにも理想の手に出会うことはあるだろうか?
殺すのが惜しいとさえ思った。殺すとしても万全の状態で実行しなくてはならない。
「あの、ありがとうございました。とても助かりました」
軍手を身につけた女は吉影にハンカチを手渡した。それは先ほどまでその美しい手を包んでいたハンカチだ。
「あ、ああ……」
「あの、お金」
「いや、気にしないでくれ。大した金額じゃあなかったから」
思わぬ収穫だった。そのハンカチは先ほどまでその手を包んでいたものだ。今の吉影にとって、魅惑的に写って見えた。
立ち去ることを優先した。ここにい続ければ、理性が切れて殺しかねない。
「じゃあ、これで失礼するよ」
足早に女の元を去った。しばらく早歩きで歩き、物陰に潜んで再びハンカチを取り出し、鼻に近づけた。
自分のものではない香りがする。恍惚とした表情を浮かべ宙に目をやる。
これが“彼女"の匂いか──。
そう思うと、下半身に疼きを感じた。ここは外だ。今は自重しなくてはならない。ハンカチをしまい、息を整えた。
やはり、彼女は理想の恋人だ。ただ殺して出迎えて、いたずらに腐らせていい存在ではない。出迎えるなら万全に、どうするべきか今は考えなくてはいけないだろう。
彼女を迎えるべく、吉影は表情を殺して思案する。そうして、再び閑散とした歩道を歩き始めた。
2024.02.17