露顕の女神 前

人が衣服や下着を身に纏うのと同じ理由で、外出時は必ず手袋を身につける。幼い頃から人前に自分の手首から先を晒すことが恥ずかしくてそうしてきた。

周囲の人々は、それを異質だと思っているらしいけれど、私にとっては手を人前に晒す方が異質だと感じてしまう。
私のその性質を揶揄ったり、悪態つく人もいる。小学生の頃はよく泣かされた。
でも、信頼している友人は「ちょっと変なくらいが魅力的よ」と肯定してくれて、それ以来あまり気にしないようにしている。

子供じみた嫌がらせは久しぶりだった。気にしないようにしていると言っても、いい気はしない。

手洗いはどうしても用を足したり手を洗う必要があるので手袋を取らなくてはいけない。女子しかいない場なので、慣れてきたほうだ。
手袋を鏡台に置いて手を洗えば、あまり親しくないクラスメイトがパッと奪って行った。

シルクの手袋なんてして気取っちゃって!
……そんなことを私へ言い捨てて、そのまま出て行ってしまった。
慌てて追いかけようとしたけれど、そこへ男子生徒が通りがかったので思わず引き戻った。結局、彼女を見失ってしまい、途方に暮れた。

手袋がなくては、外へ出られない。でも、いつまでもここにいるわけにはいかない。
人の声や足音が減ったのを見計らって人目を避けて校舎を出た。

手元には小さなミニタオルしかない。ないよりマシだけど、両手を覆うにはとても足りない。
人目を避けながらなんとか最寄りのバス停にたどり着いた。備え付けの椅子に腰掛け、通学用鞄を膝に乗せてその裏に自分の手を入れる。そうすると幾分か落ち着かない羞恥心は少しマシになった。

顔を上げてバスがいつ来るかと考えた時、ハッと気づいた。もしもこのままどうにかバスに乗ったとしても、降りる時にどうしても定期を見せる。その時には、どうしても素手を晒さなくてはいけない。

羞恥で体が熱くなったり、逆に絶望で血の気が引いたりした。羞恥で涙が込み上げてくる。

こんなことで、とクラスメイトに言われたことを思い出す。あの子達にとってはこんなこと、かもしれないが、私にとっては裸と同然だ。これが泣かないでいられるほど気丈ではない。

「どうかしたかい?」

頭上から声がかかった。
顔を上げれば壮年の男性がこちらを見下ろしていた。
背が高く、小綺麗なスーツを身に纏っている。手には通勤用らしき革鞄。どこからどう見てもサラリーマンという風貌だった。

突然知らない男の人に、それもこんな状態で声をかけられると声が出ない。その人の顔に見覚えがあることに気づいた。

その人は毎朝同じバスに乗る人だった。その人のことを覚えているのは、彼の目線が不快に感じたことがあったからだ。

いつものようにバスに乗っていた時のこと。その日は座席に座れなくて手すり棒に掴まって揺られていた。
小テストに備えて英単語カードをめくっていた時だ。ふと、顔を上げると目があった。彼はじっとこちらを見ていて、私と目があっても逸らすことはない。

正直、気味が悪かった。さっと目を落として英単語を見るが、それでも彼はこちらを見続けていることが分かった。
早く学校につかないかと祈りながら単語帳を見続けていた。

そんなことがあったので、その人に声をかけられるとますます恐怖を感じた。
私は今、素手で今にも発狂しそうなほど不安定だというのに。

「え、ええと……」

言葉にならない。鞄の裏でそっと手を握り込んだ。鞄がわずかに揺れる。
その仕草で、彼が何を思ったのか分からない。でも彼は何かをポケットから取り出した。ネイビーカラーの大きなハンカチを私の鞄の上に広げた。

「少し待っていてくれないか」

それだけ言って彼はその場を去る。一体何なんだろう。そう思ったが、鞄なんかよりも包みやすいハンカチをありがたく使わせてもらうことにして、両手を隠した。
そうやってしばらく座っていると、彼が再び現れた。近寄った彼は何かをこちらに差し出す。

「申し訳ない、こんなものしかなくて」

そう言って差し出したのは農作業に使うような白い軍手だった。しかし、私の目にはシルクの手袋よりも煌々と美しく輝いて見えた。

「あ、ありがとうございます……」

受け取るには手を出さなくてはいけない。しかし、私が何かを言う前に彼は軍手をハンカチの上に乗せて背を向けた。
この人は私の性分に気づいているのだろう。ありがたくその好意を受け取って軍手を身につけてハンカチを畳んでから立ち上がった。

「あの、ありがとうございました。とても助かりました」

彼の背中にハンカチを差し出すと、彼は軽くこちらを振り返る。
その時気づいた。息が僅かに上がっていることに。ああ、この人は私の前で平然としていたけれど、きっと走ってこの軍手を買ってきてくれたのだ。なんて紳士的な人なんだろう。

「あ、ああ……」
「あの、お金」
「いや、気にしないでくれ。大した金額じゃあなかったから」

彼はこちらを振り返ってハンカチを手にしてポケットへ仕舞った。
彼に手渡す時、ほんの少し手が触れた。家族以外の異性と手が触れるのは本当は不快になるところだ。でも、ここまで私のためにしてくれた彼と触れるのはそれほど嫌悪感はなかった。

「じゃあ、これで失礼するよ」
「あ、はい……本当にありがとうございました」

てっきりバスに乗るのかと思ったけれど、そうじゃなかったみたいだ。大人の人だし、きっと仕事で通りがかっただけなのだろう。彼は足早に去っていく。その後ろ姿を見て安堵の息をついた。

目線が嫌らしいからだとか、そういう独断の理由だけで判別しちゃあいけないな。そう考え改められる出来事だった。

明日の朝、また会ったらもう一度ちゃんとお礼を言おう。そう心に決めると、乗る予定のバスが遠くからやってくるのが見えた。

2024.02.17