こういう日も悪くない

「ここ座って。ゆっくりでいいから」

ニコちゃんに手を引かれてオフィスに入る。足はそろそろと慎重に。また転んで顔面を床にぶつけるのはごめんだ。ソファに座るとアンビーちゃんにティッシュを差し出された。

「全く、世話が焼けるんだから……ああ、上じゃなくて下を見て」
「ごめんね、ニコちゃん……」

鼻にティッシュを当てながらゆっくりと下を見る。
鼻もつまんでいるから鼻声で発音はっきりとしない声になってしまう。ニコちゃんの表情は分からない。でもニコちゃんは口では呆れたような言葉を言っているけど、どこか面白がっている風に感じる。

「いいのよ。のドジってあんまりないから珍しいもん見れたわ」
「あの顔面ダイブ……思い切りがよかった」

二人にそう言われ、私の自尊心はボロボロだ。オフィスの前で思いっきり滑って顔面から転ぶ姿を見られただけでも恥ずかしいのに、鼻血を出すところまで見られてしまったのだから。

「やめてよ〜こっちはすごく恥ずかしいんだから」
「あはは、まぁ怪我も大したことないし良かったじゃない。……あ、もうこんな時間? 、悪いけどあたしら仕事に行かないと」
「……私、残ろうか?」

アンビーちゃんの心配は嬉しいけど、さすがにたかが鼻血を出しただけで仕事に穴を開けたくない。慌てて言葉を返した。

「だ、大丈夫だよ。鼻血もすぐ止まるだろうから! いってらっしゃい」
「そう? じゃあ、またあとでね」
「お大事に」

下を向いたまま出ていく二人に手を振った。二人が扉を開けて出ていく気配を感じてふぅと息を吐いた。
恥ずかしいところを見られてしまったな……。早く忘れようと、思考を切り替えることにした。この後は窓拭きをしようとか、明日可燃ごみだからまとめないととか、今日の夕飯のことを考える。

しばらく経ってからゆっくりとティッシュを放すと鼻血が止まっていた。

「あ、治ったみたい……」

はぁ、散々だったな。と思って血で汚れたティッシュをゴミ箱に放り込もうと立ち上がった時だ。
視界の端に真っ赤な何かが写った。そちらに目を向けると、こちらをじっと見ているビリーくんがいた。まさか人がいると思わなかったから思わず飛び上がってしまった。

「うわっうわああ!」
「うぉお!?」

私の声にビリーくんも驚く。いや、驚いたのはこっちなんだけど!

「なんでいるの!?」
「いや、ニコの親分がやっぱり一人にするのは心配だから様子見てこいって言われたんだよ! んで声かけると驚かせると思って!」
「てっきり一人だと思ったから余計に驚いたよ! こ、こんな……こんな恥ずかしいところずっと見られてたなんて思わないじゃんん……」

まだあの二人に見られるのはまだいい。仮にも恋人のビリー君に見られたくなかった。もう今日は散々だと半ば投げやりな気持ちになってもう一度ソファに座った。
私の様子にビリー君が慌てて寄ってくる。

「ご、ごめんな。声かけりゃよかった」
「ううん、心配してくれたのに私もごめん……いてくれてありがとうね」

驚いた反動で八つ当たりみたいなことを言ってしまった。自己嫌悪になって謝るとビリーくんは頬を少しかいてから私の隣に座った。

ちゃんはさぁ、俺が仕事中ドジってもポカしてもその、す、好きでいてくれるじゃん?」
「う、うん。そりゃあもちろん」

突然の問いかけに少し驚いたけれど頷く。時々ドジをするところが私の恋人の可愛いところだと思ってるのでその返答に嘘偽りはない。

「だからさ、それと一緒だろ。ちゃんが恥ずかしいと思っても俺がちゃんのこと好きっていうのは絶対に変わらないからさ」

ビリーくんの顔の構造は人間と違う。それなのに人間よりも表情は豊かだ。好きという言葉を言ってくれたビリーくんは照れたように目を細めていて、私の錯覚だけどちょっと赤く見えた。 恋人の好意的な言葉はいつどんな時でも嬉しい。こちらもちょっと照れてしまう。

「あ、ありがとう」
「じゃ、じゃあ俺親分達の後追わねぇと!」

照れを誤魔化すつもりかビリーくんは立ち上がって出入り口の方へ向かう。その時、ゴミ箱に足を引っ掛けて転ぶ。

「ってえ!」
「だ、大丈夫!?」
「ダイジョーブ! そんじゃ、またあとで……」

親指をぐっと見せてビリーくんは慌ただしく出て行く。
今度こそ一人になったオフィスでふぅと息を吐く。転んだり、揶揄われたり恥ずかしいところを見られたりしたけれど……好きな人の好きという言葉を聞けたのなら悪くないかも。 そう思ってから立ち上がって掃除にとりかかった。

2024.08.15