幽霊ポルシェ
アルバイト先には“いわくつき”のポルシェがある。
いつからそこにあるのかも、誰がどんな理由でそこに置いたのかは分からない。
バイト先の先輩曰く、ある日突然そのポルシェが地下駐車場に停められていた。持ち主は姿を表さないし、乗った形跡もない。
ポルシェが突然現れ、持ち主も名乗りでないとなると、乗りたがる人が現れる。
先輩はこんな話をしてくれた。
これは数ヶ月前にバイトをやめた青年ジョン(仮名)の体験談。
ポルシェの持ち主が一向に現れないので、誰もが「あのポルシェに乗れるのでは?」と思うようになった。
高級車に乗る、というのはこの国の若者にとって憧れでもありステータスの一つになる。
ジョンもポルシェに乗ることを夢みて、それを実行に移そうとした。しかし、鍵は一人でに目の前で閉じられた。
目の錯覚だと思った。初めから鍵がかかっていたのだと。意地でも乗りたくなり、鍵を文字通りこじ開けた。
その時、突然エンジンが吹き上がった。驚き慄くジョンを乗せたまま、ポルシェはそのまま1人でに駐車場内を猛スピードで走行、ぐるぐると回り出す。
混乱に発狂するジョンはそのまま目を回し気絶。仲間たちが駐車場の真ん中で倒れているジョンを見つけ、介護した。
起きたジョンは体験した出来事を話した。
でも仲間が駐車場へ向かった時、件のポルシェはいつもの場所に停まっていて変わった様子はなかった。誰も信じず、お薬で見た幻覚だと誰もが思った。
それ以来ジョンはそのポルシェを不気味がってバイトを辞めた。
ジョンが職場を去った後、話は本当だったのではないか、と噂された。
あのポルシェの近くを通ると、エンジンが吹く音やライトが光ったのを見聞きした、という人たちが現れた。
「なぁ」と声がして振り返ると誰もいない、いるのはあのポルシェだけ……ということもあったらしい。
そんなことがあっていつしかあのポルシェは「幽霊ポルシェ」と呼ばれるようになり、誰も近寄りたがらなくなってしまったというわけだ。
なんでそんな話をよりによって、駐車場の掃除を任された今話すのだろう。嫌がらせだろうか?
みんな気味悪がるんだから、厄介な仕事は新人に任せられるってことなんだろうな。大きなため息をついて掃除道具の入ったカートを押して駐車場へ向かった。
広い地下駐車場にその例のポルシェは当たり前というようにそこにあった。シルバーボディのブルーラインが特徴的なその車は、目を引く存在だ。
数ヶ月以上前からここにあるらしいけれど、遠くから見た感じ動いた形跡はなく、埃も被っていないのがどこか奇妙だった。もし数ヶ月以上誰も近づかず触らないでいたら屋内とはいえ埃が積もっていてもおかしくはない。
……これ以上考えるのはやめよう。さっさと仕事を終えてここを去ろう。
意を決してモップを手にして無我夢中で掃除を始めた。
一度集中してしまえばこちらのもの。
たとえ本当に声がかかったとしても、聞こえないくらいに集中してしまえばいいのだから。灰色の床をひたすら見続けた。それがいけなかった。
「あ」
モップをバケツの水で洗い、引き上げる時に思いっきり振り上げてしまった。そこにあったことに気づかなかったポルシェにモップの水飛沫が飛んだ。 血の気が引くのを体全身で感じた。高級車のポルシェに水をかけてしまった。……それも掃除中の汚れた水を。
これが持ち主がいて……ということならまだマシだ。謝ればいいのだから。
でも、相手は幽霊ポルシェと噂されている。幽霊の類が苦手な私にとって、そちらの方が厄介なのだ。
無機物のはずなのに、そのポルシェから怒りを感じた気がして、咄嗟に声を出した。
「ご、ごめんなさい!」
物に対して謝るなんてどうかしてると思うかもしれないけど、こんなことが原因で呪われなんかしたら溜まったもんじゃない。慌てて綺麗な布を手にして拭いた。
「わざとじゃないんです。勢い余ってつい……」
誰が聞いているわけでもないのに、謝罪の言葉を繰り返して飛び散った水飛沫を拭う。
そうやってよく見ると、誰も乗っていないはずなのに細かな泥の跡がついていることに気づいた。やっぱり、本当は持ち主がいて誰も見ていない間に乗っているのではと思いつく。そうすると、幽霊ポルシェなんてただの噂なんだと、少し安堵した。
お詫びのつもりで綺麗な水で布を洗ってから泥を拭いた。
「こんなものかな……、さっきよりもイケメンになったんじゃない?」
なーんて。と冗談を言う。
でもポルシェは相変わらず何も言わないし、噂のようにライトがついたりなんかもしない。やっぱり噂は噂でしかなかったんだ。
「じゃあ、またね」
またね、なんて挨拶するなんてちょっとおかしいな。でも、なぜかそう言わずにいられなかった。一人暮らしをしていると、家電に話しかけてしまうのと同じ心理なのかな。
そのポルシェに表情があるように感じたのだ。水飛沫をかけてしまった時は怒りを感じ、綺麗に拭いてやったら満足そうにしているような気がしたのだ。
「あんがとな」
そう声が聞こえた気がして振り返った。
でも、そこには誰もいない。いるのはあのポルシェだけ。今のはあのポルシェの言葉だったのだろうか。
もしこれが最初に聞いたのだったらもっと怖かったと思う。でも、不思議なことに恐怖は感じなかった。空耳だと分かっていても、「どういたしまして」と返答せずにいられなかった。
この一ヶ月後、本当に“彼”は生きていて本当に話すことができることを知って命懸けの冒険が始まることはまた別のお話。
2024.03.08