緩やかな自死「ここは銀の檻」と同じ主

生ぬるい色の細い煙が曲線を描きながら天を登る。その光景をぼんやり眺めていた。
数十分前までフル回転させていた脳は想像以上に疲れていたのか何も考えられず、動きを停止したままだ。
ネメシスでは私の自由は許されないが、大人しく従順に仕事をこなせば、衣食住も保証されていたし、こうした嗜好品を望めば用意してくれた。
拉致される前、何とか成功した禁煙もここへきたら再び脳が煙草を求めるようになってしまった。ストレスフルな職場ではこれが手放せない。

「臭いですね」

部屋に入ってきたノックアウトは開口一番私に向かってそう貶した。後からやってきたのはあちらなので、煙草の火を消すつもりはない。

「こんな環境下で働いてるものですから、手放せないんですよ」
「人間の医者になるつもりはありませんが、それは人に害のあるものでしょう?」
「まぁ、そうですね」

箱には見慣れた注意文が印字されている。健康や依存性といった単語が並べられているが、特に気にしたことはない。

「愚かですね。ただでさえ短い寿命を自ら縮めようとするなんて」

そう言われると、何も言い返せない。実際それはそうだ。でも、愚かだと言われてもやめられるものでもない。
その意思を示すように、吸った煙をゆっくり吐いてみせた。ノックアウトはその煙に目を細め「……ええ本当に」と低く声を震わせた。

「あなた、早く死にたいのでしょう」
「…………」

その言葉にすぐさま返答できなかった。言葉の出ない口をごまかして煙草に口付ける。仕事で疲れていれば、脳の回転が遅くなって言葉がすぐに出ないことはままあるが、その言葉があながち間違っていないから、嫌味や言い訳といった言葉が出なかった。
ここは生き地獄だ。私の仕事の成果物は、彼らの敵らしいオートボットとかいうグループへの攻撃や、この地球の破壊活動に使われる。

いっそ、私が早く死ねば。少しでもこいつらの企みや計画が遅滞できるのでは。

……かなり、疲れているみたいだ。自嘲の笑みが込み上げて煙と一緒に吐き出した。

「まさか。まだ私は死にたいと思ってませんよ。痛いのも苦しいのも遠慮したいですね」
「そうですか」

気づくと自分の手元にあった熱源が失われていた。熱が無くなったため僅かに手元が寒くなる。ノックアウトを見上げれば、さっきまで吸っていた煙草を指でつまんでいる。

「では禁煙とまでは言いませんが、せめて本数を減らしなさい。私の目から見ても、健康を損なう恐れがあるほど吸いすぎです」
「……人間の医者になるつもりはなかったんじゃないですか」
「たとえ、種族は違えど医者として見逃せませんからね」

普段は人間をどうでもいい扱いしているノックアウトがそういうにはどうも説得力がなく、手元がさらに寒くなるだけだった。手持ち無沙汰になった利き手は居心地が悪くてその手で後頭部を掻いた。

「ご忠告どうも。でも、その忠告を聞くかどうかは私の勝手ですよ」
「いいえ、聞かなくてはいけませんよ。ただでさえあなたは早く死ぬのです。少しでも長く働いてもらわなくては」
「喫煙と寿命を結びつけるのは安直だと思いますけどね」

私の言葉にノックアウトは嘲笑った。

「あなたはもう私の所有物なのです。ご主人様の言うことは聞かなければいけませんよ」

今度は私が嘲笑う番だった。

「あなたの? いつ私があなた個人のものになったんでしょう」

ノックアウトの表情が怪訝げに歪んだ。こんな表情は滅多に見られないので愉快な気分になった。

「私は誰かの所有物になったつもりはありませんから」
「……そう思いたければどうぞご自由に。ですが」

ノックアウトはその指で煙草の火を潰して消した。自分の身体を何よりも大事にし、擦り傷一つつくだけでメンテナンスするような彼が、そんな荒々しく火を潰すとは思っていなかったので驚いた。彼の指の間から握りつぶした煙草が灰と共に舞って床に落ちる。
その握りつぶした手先が私の方へ伸びてきた。灰がついたままの指先が私の顎を掬い取り、強制的に自分の目線はノックアウトの方へむけさせられた。

「あなたが逃れることができない身ということはお忘れなく。……もう痛い思いはしたくないでしょう?」

目を細めて笑うノックアウトは意味ありげに私の首元にかけられた首輪を軽く叩いた。金属が叩かれる音が小さくも重々しく聞こえる。

「志しが高いことは良いことですよ、実に憐れで無駄で可愛いらしいこと」
「あなたの口から可愛らしいという言葉が出ると、鳥肌が立ちますね」

事実を述べてみるが、ノックアウトは不快な表情を見せることはない。ただ私を見下ろして笑っているだけだ。
その表情が私を嘲笑っているようにも、無垢な子供を見るのと同じように愛おしそうにも見えた。

2024.01.21