いずれきみに触れる
しまった、ちゃんとタイトルをチェックするべきだった。
大きなスクリーンに表示されたそのいかにもなフォントのタイトルを見て私は後悔する。どうみても恋愛映画だ。しかし、後悔してももう逃げ場はない。ここはミラージュの車内なのだから。
どうりで周りにカップルが多いと思った。これじゃあ、一人で寂しく恋愛映画を観に来た女にしか見えない。他の人からはきっと侘しい人に見えるだろう。
ドライブインシアターへ行こうとミラージュが誘い、そのしつこさに根負けして一緒に行くことになった。私も映画は嫌いじゃないし、悪くないかなと思ったのだ。しかし、放映されるのは恋愛映画。嫌いじゃないけれどミラージュと見に行くとなると話が違う。何か変なこと言わなければいいけど……と思い、開き直って見ることにした。ミラージュは比較的静かにしてくれた。どうやらこういう時は静かにするという常識はあるらしい。
映画は終盤に差し掛かるという頃。主人公とヒロインが熱く見つめ合い、愛を囁き合って口付ける甘いシーン。これが一人なら胸がキュンキュンしてたんだろうけれど、そこでミラージュに声をかけられたのだからそうはいかない。
「なぁ、ダーリン。あの二人はなんで口をくっつけあってんだ?」
「……はぁ?」
「いや、俺も人間がああやって口をくっつけ合うことがあることは知ってんだよ。でも何でそんなことするんだ?」
何て答えづらいことを聞くのだろう。とぼけたり、静かにしてと注意することは簡単だけど、それでは答えづらいことを聞かれたと知ってミラージュはさらに質問責めにするかもしれない。私はどうってことないと装って考えるフリをした。
「あー、あれね。人間はキスをしてコミュニケーションをとるの。相手へ愛情を示すのは色々手段があるけど、その手段の一種ってとこかな」
「ほーん、そんでああやって口をくっつけ合うわけ?」
「口同士だけじゃなく、頬に軽くキスをすることもあるよ。これは家族や親しい友達への挨拶っていう意味合いが強いかな。私はあんまりしないけど、この国の人はそうする人が多いよ。どっちにしても、口同士のキスは本当に特別な相手とじゃないとしないことなの。だからあの二人も特別な関係ってわけ」
結構上手く説明できたのでは、と脳内で自画自賛する。ミラージュも納得したのか「フゥン」と呟いて、映画に集中し出した。変に質問攻めにされるようなことはなくてよかった。ほっと胸を撫で下ろして、私も映画に再び集中した。
映画を見終わり、家へ帰る。ミラージュのカーラジオからはニュースが流れている。珍しい。彼ならニュースではなく音楽番組かバラエティーを流すのに。それか、ベラベラとあの映画の感想について話すかと思ったらやけに静かだ。ちょっと気味が悪い。
ニューヨークのどこそこで強盗があった……なんて物騒な事件が読まれている中、アパートの前までたどり着いた。
「ここで降りてくれるか?」
「え?」
突然、ミラージュが変形し、私の体から座席の感覚が無くなる。慌てて立ち上がって、彼の中から抜け出し、振り返ると、人型になった彼が立ち上がる。普段なら、変形しないでこのまま去っていくのに。もし、誰かに見られでもしたらと私は慌てた。
「どうしたの急に?」
「なぁ、さっきのやつなんだけど」
「さっき?」
「そう、そのー……何て言ったけな? あー、そうあれだキスってやつ? あれをオレにはやってくれない?」
「ミラージュに?」
「そう、オレに。あれが人間の愛情表現ってやつなんだろ?」
「ええっ」
声が上擦った。まさか、キスをねだられるとは……。戸惑っているとミラージュがかがみ込んで私の顔を覗き込む。ミラージュの銀の顔が近くなって、緊張した。このままキスされるのではと思ってミラージュの顔の前に両手を突き出した。私の力なんて大したことはないのに、ミラージュの顔はそれ以上近づくことはなかった。
「ま、待って。ミラージュ、説明したでしょ。私はキスをする習慣はあまり無いし、友達としてのキスはできても……その、口にするキスは特別なの」
「オレはが特別だ」
いつもはふざけてダーリンなんて呼ぶくせに、こういう時だけ名前を呼ぶなんて反則だ。ミラージュの指が一つ私の顎下に触れた。まるで割れ物に触れるように優しく触れる。それがいつものミラージュらしくなくて、おかしくて笑った。本当は、突然甘くなった雰囲気を壊すために大袈裟に苦笑したのだけど。
「ミラージュ、キスはお互いの気持ちが通じ合っていなくちゃできないよ。無理にするものじゃない」
「はオレが特別じゃないってことか?」
ミラージュの声がやや荒くなった。宥めるように彼の名前をもう一度呼んだけれどダメだった。投げやりになるように彼は立ち上がって背を見せてしまった。熱くなった頬に急にぬるい風が触れて冷たく感じる。
「はいはい分かったよ。あんたにとっちゃオレはどうでもいい、車に変身する得体の知れないエイリアンってわけね」
「そういう言い方しないで」
「いいんだ、別に。そりゃそうだ、車やその辺の自動販売機にキスするようなものだもんな」
「ねぇ、お願いだから私の話を聞いて」
彼を引き止めようとしたけど、彼はくるりと変形していつものポルシェ姿になり、エンジンを荒々しく吹かせる。
「……一緒だと思ってた、もオレのことを特別だって思ってると勘違いしてた」
「ミラージュ」
待って、という言葉は、彼のエンジン音でかき消され、瞬く間に彼は行ってしまった。
最後に私のため息が残るだけだった。
ブルックリンの通い慣れた道を歩き続ける。この辺りは夜になるととても歩きづらいけれど、昼間は時々寝ている酔っ払いを避けていけば平和だ。いくつかのブロックを歩き続けると、見慣れた古い貸しガレージの建物が見えてきた。すると、入り口からちょうどノアが出てきた。
「ノア」
「、ミラージュに会いにきたのか?」
ノアに軽く手を振って彼に近寄る。苦笑して「まぁね」と答えれば、彼は何か察したのか小さくうなずいた。
「あいつ、昨日から様子が変なんだ。と喧嘩でもしたのかって聞いたら図星だったみたいで」
「まぁ、だいたい当たり。話してきてもいい?」
「もちろん。ちょっと出かけてくる。しばらく戻らないからさ」
「うん、ありがと」
ノアの気遣いに感謝し、見送ってからガレージの中へ入った。
「ミラージュ?」
声をかけても反応は無い。シンとしていて、ちょっと不気味だ。ガレージの真ん中には昨日見た銀色のポルシェが鎮座している。
「ねぇ、聞いてるの?」
近寄って彼のフレームに触れたけど、無視される。どうやら徹底的に拗ねてしまったようだ。ふぅと息を吐いた。
「OK、無視ってことね。分かった。じゃあ、勝手に話させてもらうけど……昨日は、ごめん。あなたを傷つけるつもりはなかった。私も言い方が良くなかった。本当にごめんね」
もう一度フレームに触れると、指の感触でミラージュが少し震えたような気がした。
「でも一つ、訂正したいの。私にとってミラージュは特別」
「そんなの嘘だね」
久しぶりにミラージュの声が聞こえて、無性に嬉しくなった。
「それは、恋愛する相手としてはって意味。恋愛相手としてまだ見れていないってだけで、これからどうなるかは私にも分からない。でも、ミラージュといると退屈しないし、楽しいよ。自動車に変身できる宇宙人と友達なんて誰もが経験できないでしょ? あなたが特別じゃない理由なんてない。……それだけが言いたかったの。じゃあ、もう帰るね」
言いたいことは言えた。軽く彼のフレームを叩いて、入り口の方へ行く。すると、何かが私の手を引いて引き止めて、振り返ればミラージュの腕が先に変形していて、ポルシェからミラージュの体がどんどんと変形していくところだった。器用な変形もできるのだなと感心した。
変形を終えると、ミラージュは深くため息をついた。体の大きさも構造も違うのに妙に人間臭い仕草をする。
「あんた、本当にずるい女だな。つまりオレは飼い殺しってわけ?」
「そんなつもりはない、未来はどうなるか誰にも分からないもの。それにキスは相手に無理強いをするものじゃなくて、お互い惹かれ合うものだよ」
「なるほどね、オレにはあんたを惹きつける引力がまだ無いってことか。悪かったよ、嫌なこと言ったりして」
「ううん、仲直りできてよかった」
ミラージュが屈んで顔を覗き込む。体は機械なのに、柔らかく笑うのが不思議だ。そうしているといたずら心が燻った。少しからかいたくて、ミラージュがどんな顔をするのか気になって確かめたくなった。
「ねぇ、ミラージュ。もうちょっと屈んで?」
「ん? どうした、こうか?」
ミラージュが屈んでその隙をついてさっと彼の頬(おそらくそう呼んでいいと思う)に口付けた。ちゅっと軽いキスだ。彼の頬は硬かったけど、人の体温と同じように温かい気がした。触れたのは一瞬だからよく分からなかったけど。
「…………」
ミラージュなら驚くとかはしゃいだりとか、大袈裟な反応をするだろうと思った。でも、実際には無反応で、拍子抜けした上に、自分のしたことが恥ずかしくなってきた。
「ね、ねぇ、何か言ってよ。キスした私が恥ずかしいじゃない……」
「……なんつうか、映画を見てた時はただ口をつけるだけで大したことないって思ってたんだけどよ、実際されてみたら破壊力やばくて、スパークがチカチカする」
「ちょっと大丈夫?」
ミラージュがいつもと様子がおかしくて心配した。
「こんなん大丈夫じゃないだろ! まだ目の前がチカチカすんぜ、人間っていつもこんな気になってたのか?」
やけにテンションの高いミラージュが歓声を上げて立ち上がったかと思うと再びポルシェに変形した。
「なんかじっとしてられねぇからその辺走って来る! 一緒に来るか?」
「ここを無人にするわけにはいかないでしょ、鍵はノアが持ってる」
ミラージュは半分私の話なんか聞いていない。シャッターを開けると「んじゃあ行って来るわ!」と歌を歌うように飛び出して行った。
そんなミラージュに苦笑して見送る。ほっぺにチューだけであんな風になるなんて思わなかった。大きさも全く違う、私の小さな唇が頬にくっつくなんて、ささいなことだと思っていたのに。
でも、これがもし、唇にキスを落としていたら一体どうなっていたのだろうか。と好奇心が想像してしまう。
その未来が来るかはまだ分からないけれど、私の心臓も忙しなく動いていた。
2023.08.31