ときめいたら負け無し
貧乏暇なし。まさに私のことを表す言葉だ。奨学金で大学の学費を免除されたのは幸いだが、生活費を稼がなくてはいけない。授業が無い時はレストランのアルバイトを入れてなんとか生活費を捻出する。
苦学生、とは私のこと。今日の授業を終えて一旦自宅に戻って着替え、アルバイトへ向かう。
アパートの外階段を降りてすぐ。その正面にポルシェが停まっていて私は足を止めた。シルバーボディに青いストライプが特徴的なポルシェ。ブルックリンでも比較的安い賃貸アパートや古い建物が建ち並ぶ道に高級車が止まっているのはどこか異質だ。
そのポルシェが“器用”に片方のライトだけが一瞬つく。まるでウィンクで挨拶をするようだ。そんなポルシェに私は冷ややかに睨む。
「……不審“シャ”がいる」
日本語で独りごちた。この場合、“者”でも“車”でも合っているのだから笑えない。
「え、何? 俺のことがイケてるって?」
「言ってないよそんなこと。こんなとこで何やってるのよミラージュ」
その声はそのポルシェから聞こえる。あたりを確認して誰も見ていないことを確認し、ミラージュに小声で声をかけた。
「何って、デートのお誘いに来たんだ、ドライブデートしようぜダーリン」
はぁ、とため息をつく。何が悲しくて車に変身するエイリアンとデートをしなくちゃいけないんだ。デート、と言っても周りからは一人で車に乗っている風にしか見えないというのに。
彼らはサイバートロン星という星からやってきた生きた機械だ。ひょんなことからこの星の危機に関わる事件に巻き込まれ、共に戦うことになったのだ。私はほとんど逃げるばかりで、役に立ったかどうかは分からないけれど、その時からなぜかこのミラージュに気に入られてしまったらしい。
「せっかくのお誘いだけど、これから仕事があるの。また今度ね」
また今度、という言葉はミラージュとのデートを断るお馴染みの言葉だ。もはや口癖となってしまって自然と語尾についてしまった。
「はぁ? あのムカつく野郎の店でまだ働いてるのか? てっきり辞めたかと思った」
「辞めたいのは山々だけど、お金は必要だもの。しかたないでしょ」
「なぁ、前に言っただろ金のことは俺がなんとかする。俺のことを売り飛ばせば金になる」
以前、お金のことで苦慮していることを知ったミラージュは高級車に変身した自分を売るよう提案してきたのだ。売られたら隙を見て逃げ出す……という、バレたら一体どんな犯罪になるか分からないような案だ。それを知ればミラージュの上司オプティマスに何て言われるのか想像に容易いというのに。
「それはもう断ったでしょ、気持ちだけ受け取っておくから。ありがとね」
正直、今月はカツカツだからそのお誘いは魅力的でつい乗りそうになったが、ほんのわずかに残った理性が止めてくれた。彼のボンネットを軽く撫でた。そうすると、ポルシェから何とも砕けたような声が響いた。
「ハァ、そんな顔で言われちまったら、叶わないっての。分かった、でもせめて送らせてくれないか?」
そうして自動でドアが開かれる。その好意にありがたく甘えることにした。
「そういうのは大歓迎。ありがとう」
「よぅし!」
運転席に乗り込めば、するするとシートベルトが身体に巻き付いてポルシェはすぐに走り出す。重力で運転席の椅子に体が軽く食い込む感触がする。路地を抜けたかと思うと、職場の反対方向へ走るので私は口論した。
「ねぇ、道が違うんだけど!」
「ちょっとくらい寄り道したって大丈夫だろ! 楽しいドライブデートと行こうぜダーリン!」
やられた。どうやら、ミラージュにまんまと乗せられたらしい。
「遅刻したらどうするのよ!」
「ハハッ! この俺の速度で遅刻なんてするわけないって、大丈夫、ちゃんと間に合うように送ってやるって!」
ミラージュは随分上機嫌だ。車はどんどんと速度を上げていく。速度を落とせと言ってももう聞いてはもらえないだろう。私はもう諦めて彼の気が済むまでポルシェに乗ることになりそうだ。
カーラジオから聞こえてきたオプティマスの声をミラージュはブツリと切って流行のラブソングをかけ出す。こうなってはもうミラージュは止まらないだろう。彼に気づかれないようため息をついて、近づいていくブルックリンブリッジを眺めた。
叶わないのは私の方かも知れない、なんて思いながら。
2023.08.27 title by エナメル