向こう傷を奪う

「俺は幸運の女神に愛されているのさ」

その言葉を幾度となく聞いてきた。
私は決まってそれを聞き流していたし、いつの頃かもう聞き飽きたとうんざりして見せたが、この男は何かあるたびにそれを言って聞かせる。まるで、鸚鵡に言葉を教えるように。

寝室はただひたすらに暗く、寝台脇に置かれた洋燈の暗い明かりだけがその光景を見せている。視界には寝台の白いシーツが波打って広がり、その皺の影が先ほどまでの情事を物語っている。 気怠い身体をシーツに包めてその男を見上げた。

祥福は煙草を咥えて、部屋の暗がりへ煙を吐き出している。煙の臭いが鼻をついて、肺に入っていくと、横腹がひりつくのを感じた。
この煙草のフレーバーはあまり好きでは無いけれど、なぜかこの男の身に付けた衣服からこの臭いを嗅ぐと一瞬だけ好きになる。

胡散臭げに睨んだ私を祥福が覗き込んだ。先ほどの問いに何て答えるのか待っているようだ。
今まで私はその問いに無視することもあったし、冷たく遇らうこともあった。でも、何を返してもいつも彼は満足そうに笑う。

「ずいぶんと自信があるのね」

声で喉を振わせると、しゃがれた声が漏れた。先ほどまで狂ったように喘いでいた声は今や老婆のように枯れ果て、聞き苦しい。
それだというのに彼は楽しそうで、今にも鼻歌を歌いだしそうだ。その様子に少し笑ってみせると祥福は思った通り満足そうに口元に笑みを浮かべて見せる。

「妬いたか?」
「そんなキザなこと豪語するのは貴方くらいよ」
「本当のことだからな」

少し身を起こすために身体を捩らせると、何か勘違いしたのか祥福が寝台の縁に手をついて、私の身体の上へと上半身だけ覆いかぶさった。逃げ場を防ごうとしているようで、私の顔を見下ろして目を離さない。

「時々本当にそうなんじゃないかと思うことがあるわ。じゃなきゃ……貴方もうとっくに死んでる」
「あぁ、誰も俺を傷つけることはできない」
「嘘ね」

ベッドに頬杖をついて笑って見せた。気づくと、薬指の付け爪が剥がれている。きっとこの果てしない白い海のどこかで漂っているのだろう。お気に入りだったけれど、すぐ探すつもりはない。祥福を見上げた。

「嘘?」
「ええ、誰も傷つけることはできないのなんて嘘よ」

祥福は何か訝しげに目を細めて見た。滑稽で込み上げてきそうな笑い声を抑えると、喉がくつくつと笑った。

「気づかない?」

祥福の腕に触れてみれば、何を考えているのかわずかに強張っているようだった。

答えを示すように彼の背中に腕を回した。つけ爪がかろうじて残っていた人差し指で肩甲骨下をつつと指で触れた。つい先ほどの情事の際ついた爪痕は触れれば滲みるらしく、わずかに祥福の肩が揺れた。

「何だっけ、幸福の女神様?」

しつこくその爪痕をなぞっていると祥福は後ろ手で私の手を捕まえる。目線はこちらに向けたままだ。

「あなたを愛する女神様に傷つけられなくとも、私は傷つけられるわ」
「呵々、それはやられた!」

今日一番の愉快そうな笑い声をあげ、祥福は私を抱きすくめる。シーツは大きく乱れ、腕や足が外に出て寒くなる。彼と重なった肌の部分だけうなされそうなほど熱く、汗が滲んだ。

「幸福の女神に勝る女はお前しかいないな」
「それは嬉しいこと」

遇らうように言えば祥福はまた愉快そうに笑う。次第に互いの体温が上がり、祥福の手が私の身体に触れていく。
もう一度、と示すかのように祥福に口付けされた。

2024.07.27