half honeymoon
「今の人、山下次郎に似てなかった?」
その言葉に思わず、足が止まった。
茹だるような熱気と、容赦のない刺すような日差し。塗ったばかりの日焼け止めも無意味な気がした。早く戻って木陰で休みたい。
日差しから逃げるように自販機から離れると、子連れの夫婦とすれ違った。ベビーカーを押して歩く女性の言葉に旦那さんらしき人はきょとんとしている。
「え、誰だっけ?」
「ほら、この間見たドラマに出てた……」
夫婦は会話を続けながら歩き去って行く。その夫婦から離れるように、早歩きで戻った。
某所パーキングエリアの休憩所。
その片隅の木陰に忘れ去られたような古いベンチがぽつんとある。そこに一人の男が項垂れるように背中を丸めて座っていた。木陰近くの雑木林からは虫か何かの音が聞こえてくる。その音が余計に暑さを感じさせるような気がしてならない。
私が近づくと、彼はひらひらと力なく手を振った。木陰はコンクリートの放射する熱気はないものの、暑いことに変わりなかった。
「生茶と麦茶、どっちがいい?」
「あー……麦茶もらおうかな」
彼に麦茶を渡して隣に座った。ペットボトルの蓋を開けてすぐに飲んでいる。
隣のごくごくと喉の鳴る音を聞きながら帽子を脱いで首回りの汗をミニタオルで拭いた。
「前髪、汗でうへばりついてるよ」
そう言って彼が手を伸ばし、前髪を梳くように撫でてくれた。指が額に触れて少しくすぐったい。
「それにしても、暑いねぇ」
一通り前髪を整え終えたからか、指を離して彼は眼鏡を外して、鼻に当たるところの汗を拭った。
「眼鏡、外さないほうがいいんじゃない?」
「少しぐらい大丈夫でしょ。誰も見てない」
「……さっき、山下次郎を見たって言った人がいたよ」
「えっ、嘘」
「本当。まぁ、似てるって言ってただけなんだけど。……もう戻ろうよ、あの人たちにまた会ったら本物の次郎くんだってバレるかも」
そう促すけれど、げんなりとしたように次郎くんは顔を顰めた。
「車の中、あっついだろうなぁ……」
「いつまでもここにいるわけにいかないでしょ、ほら立って立って!」
私が急かせば、次郎くんが「はいはい」と気怠げに立ち上がり、変装用の眼鏡をかけなおした。
私の恋人は、アイドルユニット“S.E.M”の山下次郎だ。アイドルになるずっと前から付き合っている。 今年で付き合い出して何年経つだろう。五年を越えたあたりからあまり頓着しなくなってしまった。
次郎くんが教員を辞めて、アイドルになってテレビで歌ったり踊ったりしているを見るようになった当時、何だか不思議な気持ちになったのを覚えている。
知っている人なのに、知らない人になってしまったような。長い間会えない日が続くと、もしかして次郎くんと付き合っているというのは私の妄想や幻で、本当は全くの他人だったのでは? と錯覚してしまうこともあった。
何事もないように次郎くんが私のアパートにやってきて、やっとで妄想じゃなかったんだと気付いたけど。
アイドルという特殊な職もあり、人目につくところへデートにも行けない。
アイドルになる前は居酒屋や安い飲食店の梯子が定番のデートコースだった。でも、もう何年もそんなことしていない。
そもそも、この日帰り旅行も久しぶりのデートだった。
『ここ行ってみない?』
数週間前のこと。職場でお昼ご飯を食べていたら、次郎くんからURLと一緒にメッセージが届いた。
『前、旅行行きたいって言ってたでしょ。行こうか』
その文に少しだけ面食らった。急にどうしたんだろう。
旅行してゆっくり温泉に入って、美味しい料理を食べたいと話していたのはもうずっと前の話。それもアイドルになる前、次郎くんが教員だった頃の話だ。
『言ってたね。どうしたの急に』
アイドルになってから、次郎くんは忙しくなった。メディアへの露出が増えて、今では知名度のあるアイドルの一人だ。
忙しいことは、いいことだ。けれど、会う機会は減った。こうしてメッセージのやりとりをするだけで、恋人らしいことはほとんどしなくなった。
返事はすぐに返って来た。
『久しぶりに休みが取れそうなんだ。せっかくだからどうかと思って』
返事をしようとすると指が止まった。行きたいとすぐに返事をできなかった自分がいることに驚いた。
会えなくても、こうしてメッセージのやりとりができればいいと思っていた。でも、ここ一ヶ月会っていないことに不安に思う自分がいた。約束をしていても遅れたり、キャンセルされることもある。
次郎くんに、私は必要ないんじゃないか。そんな不安が心の中で燻っていた。次郎くんへの気持ちが離れているんだろうか。……自分のことなのに、分からない。
返事に迷っていると、再びメッセージが来た。
『行こうよ』
そのダメ押しに私は、行こうかとテキストを打った。
次郎くんと一緒に車へ戻ると、予想通り車内はサウナ状態だった。エアコンを付け、最初の生温い風に耐えながら出発した。
日帰り旅行、といっても行き先は隣県だし、ほぼドライブだ。隣県の温泉旅館で昼食を食べてすぐに帰るスケジュールとなっている。
エアコンの熱気を我慢して、やがて涼しい風になったのを見計らって、窓を閉めた。天気に恵まれすぎて日差しは強い。けれど、次郎くんが木々の生い茂る山道を選んでくれたおかげで快適だった。
ラジオから流行りの曲が流れているだけで、次郎くんと私はあまり話さなかった。気まずさはない。
「ねぇ、あれなんの畑?」
「さぁ、なんだろう……ビニールハウスが張ってあるから、トマトか何かじゃない?」
「ふぅん……」
こうしたなんて事のない会話をぽつぽつとして、また静寂がくる。この時間が私は嫌いじゃなかった。次郎くんがそばにいることをよく感じられたし、心地が良かった。
次郎くんのこういうところが好きだった。私はどちらかと言うとおしゃべりな方ではないし、会話のネタが豊富ではない。もう五年以上付き合っているからというのもあるけれど、黙ってただ車の風景を楽しんだり、居酒屋なら温くなったハイボールを飲んだりするその空気が好きだった。
森林の青々とした色や、ラジオから聞こえる音楽を楽しんでいると、いつの間にか出発前の不安は萎んでいた。隣にいる次郎くんは少なくともアイドルとしての山下次郎ではなく、恋人としての次郎くんだ。
このまま。このまま次郎くんと二人でどこまで行けるのだろう。不安はなくなり、夏の日差しに照らされた道路の向こう側に何があるのか不思議なくらい心が躍った。
旅館について、涼しい個室で少し豪華な懐石料理を楽しむ。お品書きには鱧すきや夏野菜の蒸し焼きなどが並び、舌鼓を打ちながら二人でノンアルコールビールを分け合って飲むことにした。「乾杯」とグラスをカチンと打ちつけ合って、金色のノンアルコール飲料を喉に流し込むとすっかり旅行気分だ。
料理も美味しかったが、温泉旅館なのでここは温泉も売りらしい。料理の配膳をしてくれた客室係さんにお風呂も勧められた。入浴料を払えば入れるらしい。美肌を売りにした温泉は魅力的だが、結局断った。他のお客さんに次郎くんを見られるのはちょっとまずい。
皿を片付けて部屋を去っていくその背中姿を見て、ちょっと名残惜しく感じた。
「次来た時は、行こうよ」
食後のお茶をすすりながら次郎くんは言った。その言葉は何気ないものだ。その約束が果たされる日は来るのだろうか。そう思いもしたがそれ以上深く考えないようにするため「そうだね」と返事を返した。
そういえば、前にもこうやって深く考えないようにしたことがある。次郎くんが教師をやめてアイドルになるという話をしてくれた時だ。
その時は夕飯を私の家で食べることになっていた。事前に「ちょっと話があるんだけど」と言われていた。
恋人の「話がある」というのは良くも悪くも身構えてしまう。でも次郎くんはいつもの気だるげな声で「アイドルになろうと思うんだけど」と言うのだった。
想像と違う話であるのと、突拍子もないことで驚いたのだ。しかも話を聞くと、これからアイドルになる、というわけではなくてもうすでにオーディションにも受かって事務所との諸々の契約も終わっているのだと言う。
「それで……何か言われたの?」
「え? 何を?」
「別れたほうがいい、とか」
「そういう話はなかったなぁ」
「なかった? いいとも、ダメとも言われなかったってこと?」
次郎くんが小松菜のおひたしを箸でつまみながらうん、と言った。
「こっちも、わざわざ聞かなかったし。だって、恋人がいるんですけど付き合ったままでいいですかって聞いて、じゃあ別れてくださいなんて言われたら、寂しいじゃん」
だから、こっちもあえて聞かなかった。そう次郎くんは言った。それでいいのだろうかと、不安を感じた。でも、だからと言って、じゃあ別れるという選択も選べず、私はそれ以上考えたくなくて「そうだね」と返した。
私は次郎くんと別れたいのだろうか。
この旅行中、そんな考えが思い浮かんだけど、そういうわけではない。ただ寂しくて勝手に拗ねていただけなのだろう。次郎くんとこうして他愛のないことを話したり、ノンアルコールビールを分けあったりするのが好きだし、何より彼のことがまだ好きなのだ。
迷っていたけど、この旅行に来ることができてよかった。デートも碌にできないし、恋人らしいこともできなうことに不満なのは確かだ。でも、彼のことが好きなのだと改めて分かった。
満腹になって旅館を出て、辺りをドライブしながら帰り道を走る。次第に辺りは暗くなっていて、対向車線の車がライトを点灯させて走らせるようになっていた。
「ちょっと、寄り道していい?」
この先に展望台があるんだって。そう言う次郎くんにいいよと答えた。次郎くんが車を帰り道と外れた道を走らせるのと同時にライトを点灯した。特に急ぐ理由もないし、ドライブの延長を楽しむことにする。
帰り道を逸れると、小さな駐車場にたどり着いた。車は一台も停まっていない。看板には展望台の名前が書かれているが、掠れていてほとんど読めない。駐車場に車を停めて石階段を二人で上った。
足に疲労が溜まりはじめた頃に石階段は途切れた。
コンクリートの敷地を鉄製の柵で囲った質素な展望台だった。でも、景色は最高で、暗い雑木林の向こうに街の明かりによる光景が広がっていて綺麗だった。
「きれいだね」
「うん、小さいとこだけど、穴場なんじゃない? ここ」
「そうかもね、車停まってなかったし」
星も見れるんじゃないかと上を見上げたけど、満天の星は広がっていなかった。よく見ると塩粒のような星がポツポツとあるだけだった。上を見上げる私につられて次郎君も上を見上げた。でも星が見えなかったからかすぐ目線を下ろしてしまった。
「……ねぇ、ちゃん」
次郎くんに名前を呼ばれ、私は視線を戻した。なに? と聞く前に次郎くんが続けた。
「結婚しない?」
何を言われたのか、理解できなかった。ささやかな夜風とか、私の幻聴が原因で聞き間違えたのかと思った。でも、聞き間違いじゃないことはその表情を見ていれば分かる。
「な、んで?」
「何でって、俺たち付き合って何年になる? 結婚してもおかしくないし、そろそろかなって」
「でも、無理じゃない? 次郎くん、アイドルじゃん」
「アイドルが結婚しちゃダメなんて言われてないよ。そりゃ、事務所にはちゃんと報告してファンへの説明もしないといけないけど、俺はちゃんの笑顔をずっと見ていたいし、それが俺の幸せだからさ」
その言葉を聞くと、次郎くんは私が何を思っていたのか知っていたことに気づいた。私が次郎くんへの気持ちが離れそうになっていたことに。
嬉しいやら気恥ずかしいやら不安やら色んな感情が込み上げてきて目元が熱くなってきた。
「仕事でなかなか出かけられないかもしれないし、すぐできるようなものじゃないけどさ、結婚しますって公表しちゃえばこんなこそこそ出かける必要もないでしょ? そうしたら、また居酒屋の梯子でも旅行でも一緒に行こう」
「……うん」
次郎くんの指が私の頬を撫でて流れたものを拭ってくれる。大きくて筋張ったその手に触れて握れば、優しく握り返してくれた。
2023.11.18