近くて遠い after

「──はい、確かに。じゃあ他の必要な書類とかは郵送するから。とりあえずこの住所でよかった?」

目の前の穏やかな中年の男性は沙明に伺い、それに頷いて返答を返す。彼がオトメの上司兼世話係のヨシカド博士だ。
沙明は以前から彼に海洋研究センターで働かないか? 誘われていたが、しばらく保留にしていた。以前の職場では──上司のやり方が気に食わず、反感を買うことになりこちらから辞める形で退職した。その詳細はおそらく彼の耳にも聞き及んでいるはずだ。動物の扱いに怒った沙明が上司と乱闘未遂になった話は、おそらく界隈で噂になっている。
再就職するとしたら、動物研究の類はもうするつもりはなかった。しかし、ヨシカドの強かな熱意や、恋人の「やりたいことが何かよく考えてみたら?」という一押しにより、再び研究職への門を叩くことになった。海洋動物は専門外ではあるものの、幅広い研究をしているここでもできないことはないし、ここから更に得意科目へ舵を切ることもできるだろう。

トントンと書類を机で整えるヨシカドは沙明に「そうだ」と声をかける。

「今日、若い子らと食事するんだよ。ちょうど交流会になるだろうし、よかったら君もどうだい?」
「あースイマセン、この後は他に用があって」

おずおずと答えるとヨシカドは少しきょとんとしてすぐにニコリと笑った。何か、勘付いたらしい。

「ああそうか、じゃあまた改めて歓迎会を開こうか。今度また彼女と一緒に来るといいよ」
「……ッス」

返事をしなくては、と思ったが照れもあって曖昧な返答になってしまう。
ヨシカドの研究室を出て、廊下を突っ切る。ふとその最中に足を止めた。あれがあったのはちょうどこの廊下のこの場所だった。今でもあの足音が聞こえてきそうだ。

と喧嘩したのは一ヶ月も前になる。オトメの研究室を訪ねるとすぐに自分の服の存在に気づいた。それはの部屋においてきたものだ。洗濯され綺麗に畳まれている。柔軟剤の香りはと同じ匂いだ。

「さっきまでさんが来ていたんです。それで、その……沙明さんに渡してくれって置いて行ったんです」
が……?」

顔を上げてオトメを見ると、どこか落ち着きのない表情。オトメはイルカだが、表情が分かりやすい。そして、机の上に置かれたお茶はおそらくオトメがに出したものだろう。まだ並々と入っていて、ほとんど手がつけられていない上に温かい湯気が立っている。菓子も綺麗に皿の上に並べられていてつい先ほどまでそこにいました、という風に見える。入り口からここまでほぼ一本道。が道草を食わない限りばったり出くわすはず。
これらから考えて、おそらくはこの部屋に隠れているのだろう。結果は後から知ったが実際そうだった。その後オトメに話したことは、も聞いている前提で話をした。

研究室を去る時、彼女を試した。あいつは、追いかけてくるだろうか。追いかけてこなければ、それまでの話だ。それほど待つつもりはなかった。ほんの少しの間のつもりで足を止めて、後ろを振り返る。
足音を聞いた時、ひどく自分の心臓が大きく打ち、全身に熱が込み上げてきた。勢いよく、廊下の曲がり角からが姿を現した。勢いが良すぎて自分にぶつかる。よろめいた彼女を庇うつもりで腕を引いて自分の中に収めた時、確信した。彼女のことが好きだと。

高校時代は気の合う女友達でしかなかったし、これまでもそうだった。ただもし、から告白されたり、そういうアピールをされれば、答えるつもりではあった。でも、自分からは言い出せなかった。恋というには未熟な感情だったし、この居心地のいい関係性を崩すことになる。それまでの経験から恋愛の上で成り立つ関係性は脆いことを知っていた。一つ関係を変えることで、彼女と別れることになることだけは避けたかった。

悪く言ってしまうと、ヒモ生活をしていた時の都合のいい避難場所だった。けれど、本当の居場所にしなかったのは、この関係性を脆く崩れやすいものにしたくなかっただけかもしれない。
あの夜、から他の男の話が出た時、腹が立った。彼女が他の男のところを居場所にしてしまうと思うと、感情をコントロールできず、酷いことを言った。今振り返ると自分の身勝手さに呆れる。
だから、抱き止めた時に放しがたかった。ここで放してしまえばそれきりだろう。やっと自覚した感情に素直になれず、言葉はなかなか出なかったが、思いは伝わり今に至る。

の足音や体温を思い出し、自然と顔がニヤけてくる。ポケットに入れたスマホが振動し、画面を見ると彼女が駅に着いたことを知らせるものだった。この後、と会う約束がある。
今日、に言いたいことがあった。あの時は、きちんと言えなかった言葉。今更だし、実際彼女にそう言われるかもしれないし、自分のガラでもない。でも、自分の本心。「好きだ」とただそれだけの言葉を言う。
きっと彼女のことだから、顔を真っ赤にして何も言わなくなるだろう。その時は、ベーゼの一つや二つしてもいいか、と考えを巡らせて恋人を迎えに向かった。

2025.06.28