近くて遠い 02
目の前の網は所狭しと肉や野菜が焼かれている。その光景を眺めながら昨晩の話をする。話を終えるとジナとSQはしばらく何も返答をしない。少し気まずくて私から話した。
「……まぁ、そういう感じだった」
「えー、それで沙明に連絡も何もしてないってワケ?」
「うん」
「んー、この恋愛博士SQちゃんの考えを言うと、押せ押せアピールチャンスだったんでしょ? 告白しちゃえば沙明もOKしてくれそーだけど。沙明も住むところゲッツしても恋人ゲッツでハッピーエンドだったんだZE」
「そ、それじゃあこれまでの沙明の女の人たちとおんなじじゃん! それに私のお給料じゃ養えないし……」
月に一度、仲間内の女子たちと食事会をするのが定例になっている。ただ、今回は皆都合が合わず、この三人で焼肉に行くことになった。高校時代の私の恋のことも知っている二人なら話しやすいし、この少人数は好都合だった。
「……」
それまでずっと黙って私の話を聞いていたジナにゆっくりと名前を呼ばれる。
「このお肉、ちょうどいい色に育ったから食べて。もうすぐで玉ねぎも焼けるよ」
「oh……ジナってばずっとお肉のお世話してたの?」
ジナは程よい焼き加減になったら私やSQの皿に入れていく。焼き肉や鍋をするとジナは鍋奉行と化すのだ。
「私は……ごめんなさい、恋愛のことは経験があまりないから助言はできない。でも……」
ジナは赤身の肉を綱に乗せながら言葉を続ける。その隣でSQが「ジナ、もう少し焼くペース緩めようZE?」と珍しくツッコんでいる。私とSQの皿にはもうすでに焼けた肉や野菜が山盛りに乗せられているのだ。
「私は、に幸せになってほしい。だから、沙明と恋人になるか、先輩と一緒になるか、自分が幸せになると思う方を選ぶのがいいと思う」
幸せ、とジナの言葉が胸にじわりと染み込む。彼女の心配と優しさを感じて、目元が熱くなった。
「SQちゃんもジナと同じ意見かな? だって沙明ってぶっちゃけ今無職ッショ? なら、ちゃんとした仕事した人を選んだ方が安定じゃん?」
「無職? 私はいいところの就職が決まったって聞いたけど」
「それがですな、辞めちゃったらしいのよん。上司の指示が気に入らなくてって。それからずうっと仕事してないってワケ。いやぁ、人間って一度落ちぶれると怖いですな」
二人の噂話を聞き、焼けた肉を口に運びながら、ジナの言葉を噛み締める。どちらを選んだら幸せになるか。先輩のことは、嫌いじゃないし優しい人だ。きっと恋人になったら大切にしてくれるだろうし、私も多分好きになる。こんな風に悩むことももうなくなるはず。
でも、沙明は? 私ばかりが好きで、それを返してくれる保証はどこにもない。これまで、私たちの関係は一度も変わることはなかったのだ。本当に、これが潮時かもしれない。
噛みきれない肉をレモンサワーで喉に流し込む。二人がこちらを見ている視線が刺さる。
「おー、すごい飲みっぷり」
「ぷはー……私、もうすっぱり諦める」
「いいの?」
「ん。だってもう長い間片想いしてたけど、一度も甘い雰囲気にすらならなかったもん。あっちももう私の顔なんて見たくないだろうし。……置いてった服、明日オトメのとこに持っていこうと思って」
「え、オトメ?」
意外な名前が出たことに二人はきょとんとしていた。
「オトメのいる海洋研究センターに時々沙明が遊びに来るんだってさ。そこに預けて沙明が来たときに渡してくれって頼んでくる」
「でも……」
ジナが何か言いかける。それを遮るように「いいの」と答えた。
「私、もう気持ちを切り替えたいの。だから、もうこの気持ちに区切りをつける。これで、もうおしまい」
ね? と聞き返すと、ジナは「……が決めたことなら」と頷いた。それを聞いて、気持ちがさらに固まる。けれど、アルコールが身体をめぐり、全身はふわふわと宙に浮くような心地になっていた。今なら、どこへでも行けそうだ。なのに、心だけがずしりと重たい。
***
翌日。宣言通り、オトメのいる海洋研究センターを訪ねた。会社も休みで、オトメも今日はいつでも訪ねてもらっていいと返事をもらっている。さっそくオトメのいる研究室を訪ねた。
「キュ! さん、遊びに来てくれて嬉しいです!」
「やっほ、オトメ。元気にしてた?」
研究室の戸を開けると円満の笑顔のシロイルカが出迎えてくれる。お土産を渡すとオトメは私にお茶とお菓子を用意してくれていた。ありがたくいただきながら昨日の女子会の話やオトメの近況の話をする。そうやってしばらく雑談していて、会話の間に空白ができた。オトメが器用にアームを動かしてお茶のお代わりを注いでいる時に、持参した紙袋を取り出した。
「あの、オトメ。ここに沙明って来るでしょ?」
「沙明さん? はい、時々遊びに来てくれるのです! えっと、ちょっとよく分からないお話もしますけど沙明さんのお話は楽しいです」
「そ、そっか。で、もし次に沙明が尋ねに来たらさ、これ渡してほしいの」
紙袋を机の上に置くと、オトメは中を覗き込む。
「これって……お洋服ですか?」
「うん、沙明のなんだ。渡してもらってもいい?」
「は、はい……それはいいんですけど、あの、さんが沙明さんに渡してあげないんですか?」
「うーん……実はちょっと喧嘩しちゃってさ。顔を合わせずらいんだ」
オトメにどうも恋愛周りの話をしづらく、そう言って濁した。オトメは悲しそうに「キュゥ……そうだったんですか」と言ってそれ以上詳しく聞くことはなかった。
「あの……あたしがこんなこと言うのもおかしいかもしれないですけど、仲直りした方がいいんじゃないですか? 仲良しの方が楽しいです」
「そ、それはうん……そうなんだけどちょっと顔を合わせづらくて。とにかく、渡してほしいの。お願い」
「でも……」
そこにポロンと可愛い電子音が鳴る。どうやら内線の通信らしい。その後に擬知体らしい声が聞こえてきた。
『オトメさん、沙明様がいらっしゃいましたのでお通ししました』
「え?!」
「キュ!?」
まさか、沙明がこのタイミングで来るとは。このままでは鉢合わせしてしまう。
「まずい、もう行くね……ってだめだ、このままじゃ廊下で鉢合わせしちゃう、オトメ。私隠れるから、ここには私はいないから! いいね?」
「え? え? さん?」
困惑するオトメを置いて、私は物陰に隠れる。もうこうやってやり過ごすしかない。隠れてすぐに戸の開く音が聞こえてきた。
「ヘーイ! オトメ! 元気にしてたか?」
「キュ、しゃ、沙明さん! 来てくれて嬉しいのです!」
隠れているからか……沙明の声が聞こえてきて心臓の音がどんどん大きくなっていく。何だか隠れている自分が滑稽に感じる。これまで沙明にこそこそするなんてこと一度もなかった。こんなに近いのにもう声もかけられないなんて。胸が少し痛くなる。
「ん? これ……」
「あ、そ、それ……」
しまった、服を出しっぱなしだった。このままでは私がここにいることがバレてしまうかも……!
「さっきまでさんが来ていたんです。それで、その……沙明さんに渡してくれって置いて行ったんです」
「が……?」
オトメ、ナイスフォロー! と物陰でぐっと親指を立てる。いい誤魔化し方だ。
「あの……さんから聞いたんですけど、喧嘩しちゃったって」
「ハッ、あいつそんなに俺に会いたくねぇってワケね?」
「そんなことないと思います。さん、すごく悲しそうでした。きっと、仲直りしたいって思ってます」
オトメの悲しげな声が聞こえてくる。オトメは人の表情を読むのが得意だ。だから、オトメから私はそういう風に見えていたのだろう。顔を覗き込めばバレてしまうかもしれないから、今沙明どんな表情をしているかまで分からない。少しの間、沙明は黙っていた。
「どうだかね……こっちもヒデーこと言っちまったし、今回はマジで愛想尽かされたかもな」
「そうでしょうか。だって、さん、ちゃんとお洗濯してアイロンもして畳んでるじゃないですか。きっと、今でも沙明さんのこと大切に思ってる証拠です」
オトメの言葉で、昨日のことを思い出す。洗濯を終えた服にアイロンをかけて畳んで、綺麗な紙袋にそっとしまう。その動作一つ一つが沙明に別れを告げる作業だと思うと、ぎゅっと胸を締め付けられて感情が込み上げそうになる。それを耐えながら手元だけを動かした。
早く沙明がここを去ることを願った。でなければ、決意が揺らぎそうだった。
「甘えすぎたのかもな」
「え?」
「俺がこんなんでもあいつは変わらず受け入れてくれた。んで調子乗ってたら、が切れちまった。ほんと、今更こんなこと気づいても遅いよな」
オトメが息を呑む。彼女はきっと迷っているのだろう。私が実はここにいることを言うか言わまいか。私も迷っていた。もし、これからも沙明と縁を続けていくのなら、オトメの言う仲直りをするなら、今しかない。
「今日は顔見せにきただけだから帰んわ。あー、ヨシカドさんに例の件はもう少し待ってくれって言っておいてくれや」
「あ、沙明さん……」
オトメが止めるのも聞かず沙明は出ていってしまったようだ。おずおずと出ていくと、オロオロした様子でオトメがこちらを見つめていた。
「さん……」
「……オトメ、ごめんちょっと行ってくるね」
飛び出す勢いで研究室を出ていくオトメが後ろで驚いている様子が分かった。悪いけど、構っていられなかった。
今は何よりも、沙明の気持ちを知りたかった。受け入れてくれた? 今更遅い? その言葉一つ一つが私を動かす理由になる。
沙明のことだから、私以外にもっと優しくて可愛い女の子の知り合いがいてもおかしくない。それでも、何かあると頼ってくるのは私だった。ほんの少し優越感を感じていた。でもどうして私? とは聞けなかった。都合がいいからと理由が返ってくるのが怖くて。でも、今はそれを知りたい。
「わぷっ」
廊下を曲がるとなぜかそこに壁があった。どうしてこんなところに壁が。しかも柔らかい。衝撃は緩やかで痛みはなかったけれど、軽く後ろによろめいた。でも、後ろに倒れることはなく、背中に何かが当たって支えられる。かと思えば、強く引っ張られて身体が何かに包まれた。安定感があって暖かい。
……私の身に一体何が起きてる? 恐る恐る上を見上げるとしたり顔の沙明が見下ろしていて心臓が飛び出るかと思った。
「しゃ、沙明!? 何で!?」
「やー、お前って意外とタンジュンだな。面白いくらいまんまと捕まっちまって」
「私がオトメのところにいるって知ってたの?」
「知らねーよ。ここに来たのはタマタマよ? オトメって嘘つけねぇだろ? 挙動不審だし、机の上の茶は温かそうだったし、こりゃこの部屋にいるだろって思ったら案の定だったわ」
まさか、最初からバレていたとは思ってもいなかった。じわじわと侵食する羞恥心に耐えきれず、沙明の腕から逃れ顔を覆った。
「嵌められた……よりによって沙明なんかに……」
「お前、他に言うことねーワケ?」
「他って何……」
指の隙間から覗くと、先ほどまで楽しそうだった表情はなく、視線を泳がせている沙明がいた。
「その、追ってきたっつーことは……期待していいってことだろ?」
「期待?」
「だから! おめーが俺のこと好きかどうかって話だよ!」
沙明がしびれを切らしたように大声で言う。想像以上にその声は廊下によく響いた。幸いにも今日は休日で人けが無いのが幸いだったが、私の緊張を高めるには十分だった。今度は沙明が口元を手で覆った。
「……はっず、俺何やってんだ。オトメんとこの研究所で……」
「私のせいじゃないからね」
「お前なぁ! これがアパートだったらヤベーことになってたからな」
「ヤバいこと?」
「ウブぶってんじゃねーよ。ンーフーンな展開に決まってんだろ」
「……はぁ!? 下半身直結思考やめてくれない!? ちょ、ちょっと離して! フケツ!」
いつの間にか沙明に手をとられ、そのまま引っ張られ外の方へ連れて行かれる。振り解こうにも振り解けない。大した力ではない。私がその手を振り解けなかったのだ。
「ぜってー離さねぇからな、移動するぞ! ここじゃオハナシできねーからな」
沙明はこちらを見ようともしない。けれど、もしも私と同じような表情だとしたら、私と同じ気持ちだとしたら……握られた手を見て、期待をしてしまう。このまま期待してしまっていいのだろうか。沙明と一緒にいられることに。
2025.05.05