近くて遠い 01

今日も一日頑張った。明日頑張れば週末だ。もう一息。そう自分を鼓舞し、あたたかい布団の中に体を埋めた。次第に心地よい睡魔に微睡んでいく。
心地よくうとうとしていた時、枕元に置いた充電中のスマホがブルっと震えた。普段なら無視して眠っていたけど半分無意識の状態でスマホを見てしまった。

“今日泊めて”

絵文字も色気もない数文字のメッセージに幸せな心地よさが吹っ飛ぶ。こんな夜中に近い時間帯にメッセを送ってきたのは沙明だ。うん、無視一択。でもしまった、操作をミスって既読をつけてしまった。
……まぁいいや、沙明だし。返信は明日の朝「ごめん寝ぼけてた」と送ることを決めて、布団に潜り込む。

……が、今度はスマホがブルブルと震え出す。今度は着信がきたみたいだ。再び画面を見ると沙明の名前が大きく表示されている。これは、出るしかないか……絶対私が出るまで着信鳴らし続けるルートに入ってる。諦めて着信に出た。耳に当てると風の当たる雑音と共に沙明の声が響いてきた。

『お前、既読スルーしてんじゃねえよ! こちとら寒ぃー思いしてるっつうのに、人の心ねぇのか!?』

人の心を沙明が問うなんておかしな話だ。

「大変だね、おやすみぃ」
『切るなよ!? 泊めてくださいお願いします様、靴でもナンでも舐めますんで!』

***

「──いや生き返ったぜ! 何か酒とかねぇの?」
「ないよ。ないから勝手に冷蔵庫漁らないで」

シャワーを浴びた沙明はすっかり上機嫌だ。
結局。沙明を泊めることになってしまった。尋ねてきた沙明はなぜか頭から甘味料の入った酒を頭から被ったらしくすごい甘い匂いを全身から出していた。そのままにしておくわけにもいかないのでとりあえずシャワーだけ貸した。

「ウープス、もてなしもできねぇのかよ。しけた家だな、ボロいしせめーし」
「水道水の水割り飲んで帰れ」

靴でも何でも舐めるとかなんとか言ってたのはどこの誰だ、という図々しさ。いや、舐められても困るけど。
沙明との付き合いはもうどれくらい続いているだろう。この縁は高校の頃からずっと続いていて今に至る。高校を卒業してからは毎日顔を合わせることは無くなったけど、それでも縁が続いている。本当に腐れ縁だ。
冷蔵庫を勝手に漁る沙明は何かの皿を取り出してひょいっと口に運ぶ。

「あ、ちょっとそれ!」
「んだよ腹減ってんだよ、ケチケチすんなって!」
「もー、明日のお弁当におかずなんだから食べすぎないでよ」

まぁ、余った分は朝ごはんにつもりだったし、止めても無駄なのは分かっていたので強くは止めなかった。私も目が醒めてしまったし、何か飲むか、と電子ケトルに水を入れてお湯を沸かす。

「沙明、身長伸びてないね? そのジャージぴったりじゃん、よかったね」
「うるせほっとけ」

沙明の着ているものは高校のジャージだ。私のものではなく沙明のもの。長い間私の家に置きっぱなしになっている。というのも、こういうことは初めてではない。沙明が同棲中の恋人と喧嘩して追い出され、寝泊まりするところに困って私の家に駆け込む……なんてことは今までに何度かあった。そのため、高校のジャージは沙明の寝巻用として置いてある。きっと今回もそんなことなんだろう。体臭が酒臭かったのもその喧嘩の名残なんじゃないかと容易く推測ができる。
電子ケトルのお湯が沸くのを待ち、マグカップを二つ取り出す。デカフェのパッケージを開きながらずっと気になっていたことを沙明に聞いた。沙明はお弁当用の卵焼きやらウインナーなどを摘んでいる。

「それで、あの人のところには帰るの?」
「……や、あれはもう無理だわ。これ以上ズブズブになったらコッチの身がもたねー、ここは引くことにする」

つまり、別れるということらしい。沙明は社会人の年上女性の家に住んでいて、彼女の稼いだお金で生活していた。いわゆるヒモというやつである。この時点で沙明を軽蔑する理由が一つあるが、縁が切れない理由がある。

「でも荷物とかどうすんの? 住む家も無いわけだし」
「荷物はあいつがいねー時に回収すりゃどうにでもなるっしょ。っつーわけで、しばらくここ泊めてくんない?」
「……はぁー?」

言われるとは思っていた。しかし、嫌そうに返すと沙明はヘラヘラ笑いながら言葉を続けた。

「次に寝泊まりできるところができるまでの間だって、多少狭かろうとボロかろうと我慢するし、何だったら対価も払いますけど? ……身体でな。どーよ? の欲求不満も解消できるし一石二鳥ってやつだろ?」

ケラケラと笑う沙明。怒鳴り返したくなるようなセクハラ発言だ。いつもだったら、怒鳴っていたかもしれない。けれど、一度膨らんだ感情がしゅるしゅると萎んでいくのを胸の中で感じた。

さっき、沙明があの人と別れると話した時、喜んでしまったのだ。そんな自分が嫌になる。長年、なぜかこの沙明という男に恋をしていた。なかなか素直になれず、意を決して告白をしようと決意した時には沙明に彼女ができ撃沈。しばらくして別れたと聞いてまた告白の決意に時間がかかり、その間に……というループだった。
今でも、この沙明という人のことが好きだ。だからこそ、こうして高校のジャージを捨てずに置いておくし、夜中でも家に招き入れてしまう。でも、沙明から少しも恋愛的な好意を全く感じない。こうして夜泊まっても、そういう空気になったことは一度もない。他の子はもらえても、私にはもらえない。きっと、私は沙明の女友達という身分は一生変わらないのだ。それに今、気づいてしまった。

ピー、と電子音がしてケトルがお湯ができたことを知らせる。中のお湯がコポコポ揺れる電子ケトルを手にしてマグカップに注ぎ、口を開いた。

「……悪いけど無理」
「んだよ、ケチくせーな」
「今日は泊めるけど、洗濯してる服も全部持って帰ってもらってもいい?」
「なんで? また次の時に着るだろうし置いてってもいいだろ?」

沙明は呑気に言う。私の気も知らないで。マグカップのお湯が揺れているのを眺める。

「付き合ってほしいって、会社の先輩から言われてるの」
「……あ?」
「今は返事を保留にしてる。そういう目で見てたわけじゃないし。でも、すごくいい人」

嘘ではなく、本当の出来事。先週、部内の先輩に告白されたのだ。長年の片想いもあったが、断れもしなかった。沙明には他の人がいる。一生叶わないなら、と思ってしまったのだ。それで、もう少し返事は待ってくださいと話をしている。そろそろ返事をしなくてはいけない。

「頼りになる先輩だし、悪くない話だなって。私もいい年だし、これもいい機会だから……って!」

ついさっきまでこたつ机に座っていた沙明がいつの間にか私の隣に立っていて驚いた。じっとこちらを見下ろす。じっと見つめられると心臓の動きは少しだけ早まる。その気持ちをごまかすように何、どうしたの? と聞こうとした。その前に沙明が口を開く。

「……お前、騙されてんじゃね?」
「は?」
「ありえねぇって。お前を好きだって言ってんの? 何か裏とかあんだろ、ソレ」
「な、先輩はそんな不誠実な人じゃないよ! 沙明じゃあるまいし!」

痛いところをつかれたらしい沙明は何か言いたげにしていたけれど、一度口を閉ざす。そして、私を小馬鹿にするように笑った。

「いやいや、男ってのはンーフーンだかんな。ヤることヤッて捨てられんじゃねーの? お前どっからどーみても男慣れしてなそーだし」

あまりにも酷い言葉だ。そんな言葉を好きな人の口から聞きたくはなかった。頭に冷たい物が刺して、冷静になってしまった。なのに、身体は怒りで熱い。

「……沙明には関係ないじゃん。私ら、別に好き合ってる訳でも何でもない、元同級生ってだけでしょ。沙明に私の恋愛のこととやかく言われる筋合いはない」

これが精一杯だった。これ以上沙明の言葉を聞きたくない。この人の口を塞ぎたくて、突き放す。
沈黙が怖い。遠くから救急車の音だけが部屋の音として入り込む。

「……萎えたわ」

沙明は気だるげにそれだけ言って動いた。目で追うと玄関の方へ向かっていく。

「何、帰るの?」
「おー、んなとこに俺がいても空気わりーだけだろ。まぁせいぜいヤリ逃げされないようしっかり捕まえとけよ」

靴の踵を踏んで、さっさと扉をあげてその向こう側へ行ってしまう。もうこれっきりだろう、その考えが頭によぎって一瞬後悔して「沙明」と名前を呼ぶ。けれど、こちらを振り返ってもくれず、虚しく玄関に響いただけだった。

「じゃあな」

背中越しに別れの言葉が聞こえ、バタンと扉が閉まった。なんてあっけない別れだろう。
帰るの? と聞いて、沙明はおお、と答えた。泊まるところが私の家しかないからあんなに頼み込んで、ここに来たはず。今夜、沙明は他の女の子のところに泊まるのだろうか。

2025.05.05